2023年3月8日水曜日

対マンチェスター・ユナイテッド、通算4度目の7ゴール



実はマンチェスター・ユナイテッドを相手に7ゴールを挙げたのは今回で4度目。

この記事では過去3回の7ゴールについて紹介しますが、予め注意しておくと過去3回は全て100年以上前の試合になるため、関心がない方はパスしてください。



1度目:1895年10月12日(約128年前)


1度目は1895年10月12日、リーグ・ディビジョン2での試合。

まだマンチェスター・ユナイテッドが前身のニュートン・ヒースという名前であった頃の対戦で、実は1894年4月28日の初対戦に続く史上2度目の対戦。

当時5試合を終えて無敗だったニュートン・ヒースをアンフィールドに迎えたこの試合、集まった約8000人の観客の中にはマンチェスター出身者も少なくなかった。

無敗維持のためにベストメンバーを招集した相手に対し、リバプールは主力数人を欠いた状態ながら、強く吹いた風の影響もあって後方のスペースをうまく使う。

大きなチャンスを相手GKダグラスに阻まれた直後の7分にベクトンのゴールで先制すると、22分にブラッドショー、35分にギアリーと立て続けにゴールを奪い、キャシディのゴールで1点を返されるも3-1で前半を終える。

後半立ち上がりにはニュートン・ヒースのチャンスが生まれるも、キャシディのシュートがバーの上に外れるなど運も味方し、55分にはブラッドショーのお膳立てからギアリーがチーム4点目を決めて勝負あり。

その後はギアリーに続いてベクトンとブラッドショーも自身2ゴール目を挙げて6-1とすると、87分にロスがチーム7点目を決めて圧勝。

消化試合数が2試合多かったとはいえ、7試合で6勝1敗の勝ち点12(当時は勝利勝ち点2)で首位だったリバプールは、相手の無敗を止め、得失点差を+24に広がる最高の形で首位を堅持した。


2度目:1908年3月25日(約115年前)


2度目は1908年3月25日、リーグ・ディビジョン1での試合。

1902年1月、ニュートン・ヒースは£2,670(現在の貨幣価値で£31万=約5,000万円)の負債を抱えて解散命令を下される。

しかし、当時のキャプテンであるハリー・スタッフォード氏がクラブ存続のために奔走し、実業家4人からの投資を取り付けて同年4月にマンチェスター・ユナイテッドとして再スタート。

そんなマンチェスター・ユナイテッドを雨天のアンフィールドに迎えたこの試合、水を吸って明らかに重くなったグラウンドは明らかにリバプールに有利に働いた。

4分にヒューイットのヘディング、9分にマクファーソンの右足のシュートで開始直後からリードすると、19分にロビンソン、そして45分に再びマクファーソンが決めて前半で4-0の大差をつける。

後半からは完璧に封じられていたマンチェスター・ユナイテッド攻撃陣の反撃を受けて68分までにウォールの2ゴールで4-2とされるが、直後の69分にマクファーソンがハットトリックとなる3点目、74分にはロビンソンにも2点目が生まれ、取られた分を再び突き離す。

マンチェスター・ユナイテッドは諦めず、79分にターンブル、84分にバニスターが決めて追い縋るも、89分にヒューイットまでも2点目を決めてリバプールが止めを刺した。

なお、この1907/08シーズン、マンチェスター・ユナイテッドは2位のアストンヴィラに9ポイント差の勝ち点52(当時勝利勝ち点2)でディビジョン1初優勝を果たす。リバプールは8位。


3度目:1916年4月22日(約107年前)


3度目は1916年4月22日、ランカシャー・セクション・サブシダイアリー・トーナメントでの試合。

1914年に開戦した第一次世界大戦の影響によるリーグ戦中断期間に開催されたトーナメントで、リバプールとマンチェスター・ユナイテッドはともにサウザンディビジョンでプレー。

この試合、マンチェスター・ユナイテッドのGKライトが精彩を欠き、7得点のうち3得点は競り合いの中で倒れた選手に押し込まれたか倒れながら放ったシュートを防げなかったもの。

マンチェスター・ユナイテッドDF陣は11分にワトソン、19分にはパグナムに決められて2失点したもののよく耐え、前半終了間際にはウッドコックが決めて1点を返す。

しかし、GKライトと同じく精彩を欠くプレーに終始した攻撃陣、特にクロスリーは2ヤード(約180センチ)の距離から外すなど、それ以降はゴールを奪えず。

すると後半からリバプールの猛攻に遭い、パグナムが49分と85分に2点を追加してハットトリック、ワトソンも68分に自身2得点目、そして77分にピンクニー、88分にバンバーが決めて、あれよあれよという間に7-1。

この頃のマンチェスター・ユナイテッドは、何故かリバプール地区のチームとの試合で怪我人や退場者が発生し10人で試合を終えることが多く、この試合もGKライトが味方DFと激しく衝突して交代。

対して同時期のリバプールは優勝こそしていないものの、1912年に加入したワズワースや1910年に加入したマッキンレイが好調を維持し、スタイルや物腰がアーセナルやヴィラでプレーしたアンディ・デュカット(元イングランド代表FW)のようなバンバーはリバプールにとって大きな財産となると評価された。



1世紀以上前の試合を調べて先ず最初に感じたことは、上で名前を挙げたリバプールの選手たちが居たから今のリバプールがあるということ。

もちろんマンチェスター・ユナイテッドもそうで、特に立て直しに奔走したハリー・スタッフォード氏は敵ながら素晴らしい行動力だと思うし、改めて調べてみたいと思う。

尚、試合紹介の文章は全て当時の新聞の内容を抜粋したもので、1世紀以上前の新聞を閲覧することができる超素敵ウェブサイトThe British Newspaper Archiveから検索しました。

無料で見れる記事は3つまでだけど、有料会員になればもっとたくさん閲覧できるので興味がある方はぜひ。



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